~古墳時代篇~
筆者:正為-yuki
はじめに
夏に何かしらの記事を書こうと思い立って、もう秋になってしまった。時の流れと自身のサボり癖少々嫌気が指す季節である。
さて、この頃私の流行りというものは宮についてのことである。大学で講義を受講させていただいたこともさながら、今夏に平城宮に巡検する事も関係する。せっかくある程度の知恵があるので今のうちに書き切りたい次第である。
さて、この頃私の流行りというものは宮についてのことである。大学で講義を受講させていただいたこともさながら、今夏に平城宮に巡検する事も関係する。せっかくある程度の知恵があるので今のうちに書き切りたい次第である。
歴代遷宮の時代
藤原京以前、大王の代が変わると必ず宮の移動がなされる慣習がある。これを歴代遷宮と言う。宮は一代一つとは限らず、二つ以上営まれるケースもある。飛鳥時代以前の宮は記紀の記録で不明瞭で確固たる場所は不明であるが、宮はただ代ごとで放棄されていたわけではなく、斑鳩宮の厩戸皇子→山背大兄皇子などのように伝領がみられる。
「何故に歴代遷宮が行われていたか」というのは様々な説を有する。具体例として、以下である。
- 死の穢れを避けるため:大王の死去に伴う「死の穢れ」を避け、即位にあたって新たに清浄な地を選んで宮を営んだとする説。
- 父子別居制(家族・居住様式):父皇と皇子が同じ宮に住まず、別々に宮を構える古代の家族・婚姻様式に由来すると見る説。
- 建物の耐用年数:当時の掘立柱建物などの建築上の耐用年数に理由を求める説。
- 支配機構の再編:大王の死去により生じる権力の空白に対し、新大王が自身の支配体制や機構を再構築・再編するための政治的行事の一環であったとする説。
宮の所在地がある程度推定されているのは推古朝の豊浦宮・小治田宮からであり、古墳時代の宮の様相は不明瞭である。しかしながら、飛鳥宮の発掘調査などから、藤原京に至るまでに段階的に発展していることが知られている。そして、それらの発展は地方の官衙や古代豪族居宅に影響を及ぼしている。
本ブログでは、それらを発掘調査をあげながらその過程を考えたい。
古墳時代の有力者の居宅
飛鳥の小治田宮のような日本書紀の記述から宮の構造を復元する試みなどがなされているが、古墳時代においての宮の所在地は不明瞭であり、構造自体よくわかっていない。おそらく、歴代遷宮という慣例から、後世の飛鳥宮などより小規模な施設であったであろう。
本章では古墳時代の豪族居館(首長居館・有力者居館)など遺跡例を参考にし、後世の飛鳥宮・古代官衙の連続を考え、古墳時代との宮の関係性を考えたい。
纏向遺跡
少し話がずれるが、現状日本最古の王宮は纏向遺跡であろうと思われる。纏向遺跡は後述する三ツ寺Ⅰ遺跡や南郷遺跡群と同じく、遺跡周辺部に纏向古墳群と呼ばれる最古級の古墳群がある。加えて、遺跡は大規模であり、大型建物が見受けられる。
纏向遺跡の重要性は、最古級の定型型前方後円墳である箸墓古墳の画期性、出土土器の多様性からもうかがえるが、注目したいのは引用1の©太田北居住区の辻地区である。ここは纏向遺跡で最も幅が狭い微高地にあり、庄内0式期から布留1式期の遺構の密度が最も高く、祭祀土坑群など重要な遺構も見つかったいる。
今回取り上げるのは、少し前に話題となった辻地区の居館遺構についてである。この居館遺構はV期に年代区分されている。重要点を簡潔に以下記す。
Ⅰ期は区画溝と掘立柱建物Gの遺構が見られる。この居館が使われていたのは庄内2式期(3世紀前半から中頃)だと見られる。
Ⅱ期はⅠ期の居館に重複される形で発見された遺構であり、井戸Bや大型祭祀土抗、建物B・C・D・Fの遺構がある。建物群は東西に方位を揃えて並べており、特に建物Dは南北19.2m、東西は推定12.4mに及ぶ当時としてはと最大級の建物である。建物Bの西にある井戸Bは、径2mの規模を持ち、特筆的な遺構ではないが、建物群の軸状にあることから重要な立ち位置を占めた可能性がある。時期は庄内3式期(3世紀中頃)とされている。
Ⅲ期は建物E・Hと柱列・区画溝・井戸などがある。時期は出土遺物から布留0式期以降のものだとされている。井戸からはⅡ期の大型祭祀土抗と同様に祭祀的な遺物(ニホンジカの中手骨など)が出土している。
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Ⅳ期は検出されるのは区画溝のみで、時期は布留2式期とされ、居館の廃絶もこのころとされる。建物遺構は後世による削平などで失われた可能性も有りうる。
Ⅴ期も検出されるのは石貼りの区画溝のみであり、区画する範囲も不明瞭である。
以上のなかでも、今回注目したいのはⅢ期の遺構である。三期の建物群はそれぞれの向く方位が一直線になっているが、後世の飛鳥宮Ⅱ期以降のような南北に直線ではなく、自然地形に沿って建てられていると考えられる(林部 2025)。しかし、この建物群が王宮であることは、飛鳥宮に類似例がなく、断言することは難しい(林部 2025)。また、纏向遺跡自体、後述する奈良県の南郷遺跡群との類似性も示唆されている(林部 2025)。
突発的に纏向遺跡について調べてみたが、先史時代ゆえ全体的に不明瞭である。古墳時代の始まりの地であるのに、前方後円墳体制の始まり=ヤマト王権と断言することも難しい。しかし、纏向遺跡の画期性は後世の南郷遺跡群に類似性見いだせる。記録がない時代からこそ、各遺跡との比較することで纏向遺跡の特異性・類似性がよりはっきりするかもしれない。
三ツ寺Ⅰ遺跡
上越新幹線建設に伴う事前調査として昭和56年(1981年)に着手された三ツ寺Ⅰ遺跡の発掘調査は、古墳時代(5世紀後半〜6世紀初頭)における豪族居館の全貌を明かす歴史的な発見となった。その極めて高い学術的価値から、新幹線橋脚の位置変更をはじめとする設計・工法見直され、奇跡的な現地保存が実現しました。
この遺跡は居館の中枢(内郭)は一辺約86m(約7,400㎡)の方形で、全面に約1mの盛土が施され、基部には堅固な石垣が積まれており、その外周には幅30〜40m、深さ約3.2〜3.5mの自然河川を改修・掘削した大規模な湛水周濠と多重の柵列が巡り、外部と厳重に隔絶された強固な防御機能と威容を備えている。館内部は東西を貫く中央柵列によって南北に厳格に二分されており、北区画(北半区画)は従者の居住域や作業空間とされる日常的な区画であるのに対し、南区画(南半区画)は上屋3間×3間・下屋8間×8間の大型掘立柱建物(正殿・1号建物)を中心に、導水施設と連動した石敷遺構や2号井戸が配置されていることから公的な祭祀的空間であると考えられている。
北区画は現在未発掘のため、不明瞭であるが、原之城遺跡の例などから倉庫群の存在や工房などの存在が指摘されている。また、纏向遺跡や南郷遺跡群と同じように導水施設が見られることも特徴的である。
この居館と密接に関わっていると考えられるのが、約900m離れた位置にある保渡田古墳群である。特に二子山古墳に始まり薬師塚古墳で突如途絶えるこれら大型前方後円墳群は、成立から繁栄、そして榛名山二ツ岳(FA)噴火に伴う終焉に至るまでの時期が三ツ寺Ⅰ遺跡の変遷と連動していると見出されている。
館の東西軸線が二子山古墳を指向することや内郭石積と古墳葺石の技法類似からも、保渡田古墳群は三ツ寺Ⅰ遺跡を拠点とした首長層の墓であったと思われる。
ほかの豪族居館と比較した際、三ツ寺Ⅰ遺跡の最大の差異と画期性は「諸機能の館内への一元的集約」と「重装な外郭構造」にあります。例えば、三重県の城之越遺跡や奈良県の南郷遺跡群では祭祀場や導水施設、工房・倉庫群が居館の外や地域全体に分散配置されていたのに対し、三ツ寺Ⅰ遺跡は政治や居住だけでなく、水利・農耕祭祀や金属精錬などの技術生産機能までを一つの堅固な館内にまとめた「集約型居館」の典型を示しています。また、古新田遺跡のように明瞭な外郭を持たない例や、荒子・丸山遺跡のような小規模な集落内居宅例と対比しても、大規模な盛土、石垣、湛水大周濠、多重柵列を備えた三ツ寺Ⅰ遺跡は突出した防御性と威容を誇り、同時代の原之城遺跡などとともに地域最高階層の首長権力を如実に象徴しています。
本来は生産現場で行われていた用水祭祀を館内に導入して「祭政一致」の統治を確立し、律令官衙に通じる厳格な空間秩序やヤマト王権との緊密な政治的連携を結実させた三ツ寺Ⅰ遺跡は、榛名山噴火により約30〜40年の短期間で機能を停止したものの、古代東国社会の形成過程を解明する上で不滅の基準点となっています。
南郷遺跡群
南郷遺跡群は奈良盆地の西南、葛城山の麓にある遺跡であり、この場所は現在では大阪と奈良をつなぐ要所である。葛城という場所から葛城氏の支配拠点であると言われている。三ツ寺Ⅰ遺跡などのと同じく、南郷遺跡群周辺には巨瀬古墳群と呼ばれる古墳群が存在する。特に古墳群と南郷遺跡群の間にある室宮山古墳は全長238mに及ぶ大型前方後円墳であり、葛城氏の祖である葛城襲津彦の墓だとされている。また、出土遺物から築造年代は5世紀初頭と考えられている。
室宮山古墳の背後にある巨瀬古墳群には5世紀から6世紀にかけての総数600基の古墳があり、南郷遺跡群もその時代を中心とする。
南郷遺跡群の一番の特徴は開放的な空間に分散的に施設を配置している点にある。弥生時代の環濠集落や三ツ寺Ⅰ遺跡みたいに濠などを持たず、自然の流路を使って、王の居宅、生産拠点、祭祀空間が分分散的に配置されている。古墳時代の集落遺跡の比較では纏向・布留・和爾遺跡と類似点が強い。(坂・青柳 2011)
纏向遺跡との類似性も注目に値するが、大きな差異もある。前提になった遺跡がある点である。それが鴨都波遺跡と秋津遺跡である。これらの遺跡は弥生時代の拠点集落に始まり、そのまま断絶することなく古墳時代も運営されている。鴨都波遺跡内には鴨都波一号墳があり、副葬品として三角縁神獣鏡が四面副葬されている。古墳時代前期(四世紀中頃)における有力首長の墳墓として考えられる。秋津遺跡には大規模区画施設や掘立柱建物、大型竪穴住居などが検出され、石釧・鏡片などが出土している。このことから首長がマツリを行っていた場所であると考えられている。
つまり、南郷遺跡群周辺は古墳時代前期から地域内に盛んな活動が行われており、それらの遺跡を基に南郷遺跡群が誕生した。成立背景にはおそらく葛城氏という血縁的なものより、地縁的な関係のなかで地域の首長が誕生したと思われる(坂・青柳 2011)。これ人工的な都市とも言われる纏向遺跡とは対照的である。
南郷遺跡の南東端に位置する極楽寺ヒビキ遺跡には王が高台に登って「国見」をおこなったとされる「高殿」とすいていされる大型掘立柱建物が見つかっている。出土遺物からみて建物が機能していたのは5世紀前半と短期間である。この建物は王の権威を視覚的に見せるものであっただろう。
実際に王がマツリを行った場所として南郷安田遺跡が推定されている。この遺跡は南北に長い空間を占有し、大型掘立柱建物・竪穴住居群、80mに及ぶ塀が検出された。大型掘立柱建物は極楽寺ヒビキ遺跡と同様以上の規模であるが、建物前面に大きな広場は設けられていないのが対照的である。これは後述する南郷大東遺跡も同様である。
南郷大東遺跡の特徴は貯水池・木樋・覆屋などから構成される導水施設の遺構である。この施設からはマツリに用いたとされる木製品、供物としてのヒョウタン、モモ、ウマ、クエ、製塩土器などがある。また韓式系土器も多量に出土する。マツリ自体は導水施設構成する覆屋の中でが行われ、マツリが終わったら使ったものは貯水池に廃棄されたと考えられる(坂・青柳 2011)。
南郷遺跡の最北端に多田絵木本遺跡がある。この遺跡は丘陵先端部の高台にあり、南北に大きな流路、東側は堀が掘削され、居住地側は石垣が儲けられている。建物の遺構は竪穴住居4棟とどまり、首長居宅を示す遺構はないが、その立地から有力者が住まう場所と推定されている。
他にも南郷遺跡群には、鍛冶生産を示す南郷千部遺跡、工房を示す南郷角田遺跡、大壁建物が検出し、倉庫して利用されたとされる南郷久山遺跡、総柱建物が南北に3棟並び、同じく倉庫とされる井戸大田台遺跡など、様々な機能を持つ施設が分散的に配置されている。
王・有力者の住まいを考える
古墳時代においての集落遺跡・有力者居館で一貫していえることは、大型竪穴建物や大型掘立柱建物、導水施設、生産・工房、倉庫群など機能が備わり、遺跡周辺には始祖墓とされる古墳とそれに伴う古墳群が造営されている。そして、大型建物は周りに流路がある高地に建てられていることが多い。遺跡内には導水施設も付属されていることから、水の祭祀との関わりを感じられる。古墳時代はまさに農耕開拓の時代、当時の有力者たちは水の祭祀を独占・先導することで自らの地位を確立し、巨大な前方後円墳を造営し、この遺跡たちはその有力者の性格を表しているのではないだろうか。
纏向遺跡は除いて、大型建物は正方形タイプが多く、単独で建っていることが多い。また、大型建物は塀などで遮蔽されている。古墳における埴輪の整列のような空間の神秘化を感じさせる。閉鎖的な奥まった所で有力者は祭祀を行ったのだろうか。
三ツ寺Ⅰ遺跡を含め、東国の有力者居館は纏向遺跡や南郷遺跡群などとは対照的で、各機能は居館域に集中し、防御的性格を有した遺跡である。しかしながら、明瞭な濠や柵などが見いだせない古新田遺跡の例があるように、これらの差異は地域性によるものだと思われる(橋本 2007)。また、東国は庶家の掘立柱建物の普及が平安時代まで遅れるように建物の役割や使い方も近畿地方とは異なっている可能性がある。興味深いことは諸機能が一箇所に集中していることは後の宮や官衙に通じる特性を持っている(青木 2025)。私はこれを宮などの施設との連続性と考えるというより、地域に合わた結果の形か、都市の発達が未発達であるゆえと思われる。つまり、三ツ寺Ⅰ遺跡は有力者の開発拠点という意味合いが強い(若狭 2023)。イメージとしては中世の武家の居館的イメージである。そのため、豪族居館自体が公私が混在し、有力者が視覚する範囲の生産しか行われていなかっと考える。逆に、纏向遺跡や南郷遺跡群などは人の交流などの物流的需要から都市的に整備された遺跡で、いくつもの共同体を統治する王による、外部とも関わる公的な生産、倉庫もあったのではないか。
実際に三ツ寺Ⅰ遺跡は推定存続期間は30〜40年ほどで6世紀初頭には廃絶している(若狭 2023)。このことから、1~2代ほど使用され、古墳時代の歴代遷宮のようにある一定の期間を得たら、居館を移動させていた可能性がある。
要約すると東国で見られる有力者や居館は開発拠点的な側面があり、後の官衙と類似点を要するが連続的なものではなく、その地域に合わせて発展された施設である。そのため、短期的に運用され、纏向遺跡や南郷遺跡群などと比べて発展段階にある遺跡であると思われる。一方、纏向遺跡や南郷遺跡群は分散的に諸機能施設が存在する都市的な側面が強く感じる。しかしながら、居館の立地や導水施設などは三ツ寺Ⅰ遺跡とも類似点がみられる。このことから、有力者に求められた性格はある程度共通点を有するものであろう。
最後に後世の宮との関係を考えたい。私的な考えとして古墳時代の倭王権の実態とはに纏向・南郷遺跡型のほうが実態に即していると思う。おそらく、古墳時代の宮は必要最低限の居館や祭祀施設、数棟の倉しか有さず、その他の機能は周辺に点在している生産・工房施設に依存していたのではないか。つまり、後世における倭京と同様な概念である。宮の所在地は当時の権力関係や生産関係によって変化し、大王は宮周辺に点在する生産施設を使うことができたのであろう。これはあくまで推測に過ぎないが、一つの遺跡群に複数の時代が異なる大型建物が検出する例、辺鄙な場所に大型建物群が検出する例などがあればより信憑性のある考えと発展するかもしれいない。
さいごに
今回、これらを書き終えるのに3~4ヶ月を要した。すべて私の怠慢である。しかし、怠慢のうえに作り上げた記事にしては7000文字と無駄に分量を要しているし、研究史を全くまとめ上げることができなかった。今度は1000文字の小記事で高頻度で書き切れる努力しなければならない。さもなければ藤原京が終える頃には大学を卒業していることであろう。
本来古墳時代のことは、前段階の数行で終わる記事であった。しかしながら、私のクセというものであろうか、文献追っていったら、内容が肥大化していた。そのくせに、内容は極めて薄い。なぜなら、有力者居館と後世の宮、官衙、果てまでは郡衙に繋がると考えている人が居ないからである。もちろん先述したように私も連続性を有しているとは思わない。そもそも、居館についての情報も三ツ寺Ⅰ遺跡が有名なだけで、居館どうしを比較している研究がすくない。いつか、和邇や布留遺跡の比較も含めてもっと詳しく探求するべきであろう。もう遅いが、ある程度研究成果がある飛鳥宮の構造から遡る形で紹介する法が説明がつくだろうなと。
参考文献
- 仁藤敦史『都はなぜ移るのか 遷都の古代史(歴史文化ライブラリー333)』吉川弘文館、2011年
- 田村圓澄『飛鳥時代倭から日本へ』吉川弘文館、2010年
- 若狭徹『シリーズ「遺跡を学ぶ」―003古墳時代の地域社会の復元三ツ寺Ⅰ遺跡〈改訂版〉』新泉社、2023年
- 木下正史『倭国のなりたち』吉川弘文館、2013年
- 橋本博文『古墳時代の豪族居館(広瀬和雄・和田晴吾編講座日本の考古学8古墳時代下)』青木書店、2012年
- 杉井健『首長居館と集落・生活(岸本直文編『史跡で読む日本の歴史2』)』吉川弘文館、2010年
- 橋本博文『古墳時代の首長居館からみた古代豪族居宅(奈良文化財研究所編『古代豪族居宅の構造と機能』)』奈良文化財研究所、2007年
- 青木敬『古代官衙の造営と宮都の構造(考古学選書)』同成社、2025年
- 橋本輝彦『纏向遺跡の居館域とその構造(桜井市纏向学センター東京フォーラムXI「纏向学」発信!纏向に大王宮。-そこに卑弥呼はいたか-)』奈良県桜井市、2025年
- 林部均『飛鳥・藤原の宮都と纏向遺跡(桜井市纏向学センター東京フォーラムXI「纏向学」発信!纏向に大王宮。-そこに卑弥呼はいたか-)』奈良県桜井市、2025年
- 坂靖・青柳泰介シリーズ「遺跡を学ぶ」―079 葛城の王都・南郷遺跡群』新泉社、2011年

